これは2003年8月より9月にかけて、「つれづれ日記+写真」に連載したものである。その全30カットを掲載した順に並び換えた。添付したコメントはオリジナルのままだ。日記にはサイズ制限があるので、写真の大きさがいろいろになってしまったが、あえて変更せず発表時のまま掲載した。掲載した写真はすべて1973年に島根県の隠岐の島を旅したときのもの。 写真を写すことは好きだった。この頃は意識して作品を写し始めた頃のもので、今見ると、稚拙ではあるが歴史の証人的部分もあり、我ながら興味深い。初期の自家現像で画質の悪い部分も間々あるが、ご容赦願いたい。 −−−−−−−−−−−−−−−-−−−−Nov 2003 kan |
同じ港でもこちらは30年前の隠岐島、島後の港だ。
YS−11に揺られてたどり着いたのだが、実にほのぼのとした良い島だった。
比較的コンディションの良いネガを発掘したので、ちょっと続けてみていただこうと思う。
ニコンF、ニッコール35mmF2(だと思う)、トライX(コニドールスーパーのはず)
私が撮ると風景もこうなるという見本。この頃は全てトライXの増感、しかもニッコールである。大判に慣れた目で見ると、極めてざらざらで、アクロスのハーフにも劣るほど画質は悪い。まあそのおかげでイエローフィルターなんか必要ないほどコントラストがある。
これはこれで一つの方法か、などずうずうしく言える歳になった。
ニコンF、ニッコール35mmF2、おそらくF16で1/500秒、トライX(コニドールスーパー・800増感)
この頃、レンズは35o、明るいところはF11固定1/250秒以上、暗いところは開放でそれに合うシャッター速度の組み合わせと単純化していたから、このデータはまずまちがいないところだ。
撮影データというのはだいたい記憶に残っている。投稿用に必ずデータを控えた結果なのだ。
最初のカットと隣り合わせになっていた写真。話すときは方言丸出しで生き生きしゃべっていた子が、カメラを向けるとうれしそうに、でもちょっとはにかんだ。私はこの島の人たちが好きになった。
彼も今は40代半ばか、どうしているのだろう、島に仕事があったのだろうか・・・
ニコンF、ニッコール35mmF2、おそらくF4で1/60秒、トライX(コニドールスーパー・800増感)
島の中ををブラブラしていたら、神社があった。子供たちが自転車で集まっていた。今も変わらぬ風景だろう。
ニコンF、コムラー28o、おそらくF11で1/250秒、トライX(コニドールスーパー・800増感)
スキャナのおかげで何とかスキャンできた。ネガがオーバーで上手く焼けなかったと記憶している。
港の夕日。この時は11月だから、4時ごろだろうか。宿を出るとすぐ前が港で、視界を遮るものは無かった。夕日は秋にもかかわらず強かったと記憶している。
ニコンF、ニッコール35mmF2、おそらくF11で1/250秒、トライX(コニドールスーパー・800増感)
なんでもない海辺の風景。隠岐は砂浜より磯が多かった。海辺から切り立ったところが結構あるので、こんな風な場所が多い。この先にあるのはロシアか韓国か、いずれにせよ異国なのだ。
ニコンF、ニッコール35mmF2、おそらくF11で1/250秒、トライX(コニドールスーパー・800増感)あまり代わり映えしないデータだ。
隠岐の島には闘牛がある。と言っても牛同士が角で押し合うもので、何となくほのぼのしたものだ。とはいっても牛は大きくたくましい。
ニコンF、ニッコール35mmF2、おそらくF5.6で1/250秒、トライX(コニドールスーパー・800増感)明るかったのは確かだが、ネガは大幅にオーバー、どう考えても3段以上露出している。画質の悪さはご容赦を。
電線に雀が三羽・・・以上いた。部落の中の道はとてものどかで、初めてなのに懐かしささえ感じた。
ニコンF、コムラー28o、おそらくF22で1/250秒、トライX(コニドールスーパー・800増感)
港から少し歩いた湾内である。秋の日本海はこれから厳しい冬に入るぞと言う雲で覆われていた。さりながら、対馬海流の暖かさのせいか、冬の北陸より少し明るいようにも感じた。隠岐が微妙なロケーションにあるからなのだろうか。
ニコンF、コムラー28o、おそらくF16で1/250秒、トライX(コニドールスーパー・800増感)
狭い島だ、港から少し歩くと田圃が広がる。作業をしていたおばあさんが、私に声をかけて来た「道に迷ったのかね」。
実は、この言葉はここまでに何度も聞いた。旅人が村の中をふらふら歩いているので、道に迷ったと思ったらしい。とても暖かな島の人たちだ。
カメラを向けると横を向いてしまった。写されるのに慣れていないのだ。このポーズでしばらく世間話をしたのだった。話の内容は忘れてしまったが、ちょっとほっとしたのは今でも覚えている。
同じ内容が続くので、データ省略
対馬海流に乗っていろいろなものが島に漂着する。浜には堆く積み上げられていた。
これもまた島の姿なのだ。
こういう画像はきわめてサイズが大きくなる。60パーセント圧縮してこの大きさが掲載限界だ。ちょっと迫力不足はご了解願いたい。
先日のシリーズの続き。
道沿いの家の玄関か。何となく不思議な感じがして写した。曲がっているのは私の根性が曲がっているからだと思う。今となってはなぜかわからない。決して急いではいなかったのだが。
きれいに手入れされた狭い地道の片側には、独特の方法で稲藁が干してある。この風景、今も残っているのだろうか。
部落の端にサッカーゴールが転がっていて、その向こう側は屋根のついた土俵だ。
どうも学校のグランドの隅に迷い込んだらしい。
元気な子供たちがいた。方言丸出しで人懐っこかった。
40代半ばになるはずのこの子達は、いま何人この島に残っているのだろうか。漁業の衰退で観光のみに生きると聞き、時の流れを嫌でも思い知る。
少年たちの別カット。この時にはずいぶん写し、いろいろ話した。改めて生き生きした時代を感じる。同時にほろ苦さも増してくる。
それでも、人間を写しておいて良かったと思う。景色ばかりだったら、ここに掲載する気にはならなかっただろうから。・・・人間とはそれほど強い力を持つ被写体なのだ。
なんでもない風景。今見てもなんてことない風景なので、かつて一度も焼いていない。
しかし何となく引っかかる、なぜだろうか。この時、そろそろ秋も深まる頃だったのは確かだ。
後鳥羽上皇ゆかりの寺だそうだ。お寺なのに何となくさらっとした感じがしたのを覚えている。
この島にとって、後鳥羽上皇の旧跡は、大きな観光資源なのだ。
ニッコールにトライXでも、カリカリにはならないこともある、という見本かな。
それにしても、まさにローカル空港、派手なものは何にも無い。セスナがお似合いだが、そこが面白かった。
実は、この写真群は時系列がまったく整っていない。今日の写真は隠岐の島の飛行場に到着したときのものだ。二台のカメラで写していたので、順番はむしろ時間に逆行している。
言わずと知れた、YS−11、かつては離島航路の花形だった。
よく揺れたが楽しかった。いよいよ運行が終わると言うのは寂しい限りだ。
☆このカットは既出だが、8月の締めとして再登場させた。再スキャンしたことにより、以前より柔らかな出方だと思う。特に加工はしていない。
同じ招待者のKさん。老舗薬局の先代社長(現在静岡県東部で最大のドラッグストア)
そんなリッチ人だが、まったくそういうところは無く、実に穏かで、しかも博識、お話していてとても勉強になった。決して押し付けがましくない話はとても印象深い。
こういう歳の取り方をしたいと思ったのだが、まったく逆方向、相変わらずせかせかがさがさで、Kさんには遠く及ばない。反省しても、もう遅いか。
順不同で港に戻った。漁船の上には子供たちがいた。屈託の無い笑顔が印象的だった。
画質が悪いので、このフイルムは増感したのだと思う。もう陽はほとんど落ちていたのだ。とすれば、ISO800相当だろう。この頃だから、現像薬はコニドールスーパーだと思う。
子供たちに何も頼まなかったのだが、勝手にパフォーマンスしていた。記憶があいまいだが、テレビアニメの主人公になっていたはず。横で恥ずかしげな女の子(おそらく写っている少年の内、誰かの姉)がかわいかった。
決めポーズ、見ているとちょっと恥ずかしいがかわいいとも感じる。この時はどうだったのだろう、記憶に無いが3枚撮っていたのだから良い感じだったのは間違いない。
皆さんのレスにもあるが、30年前にはこんな遊びをしていた子がいた。そして今、まねるものは違っても、意味は同じような子供を見ることがある。笑いながらもほっとするのはなぜだろうか。
先日の後醍醐天皇縁の地の辺だと思う。鳩は気楽に歩き回っていた。特別大事にされているわけではなく、さりとて邪険にもされず、人間を恐れていなかった。鳥ものんきな島だ。
目を反対に向けたらこの幟が風に舞っていた。何となく寂しさを感じた。
たまたま訪れた私たちだけの神社、清潔だが寂しい気がしたのだ。
港の周りを歩いていたら、昔の学校とも集会所とも見える建物があった。写している時におばあさんが通った。不思議な場所だ。
隠岐に着いた日の夕方、港の周りを周って写した内の一枚。
hottyさんが発表した写真に、どこかで見た感じがしたのはこれだったとわかった。
今ではお約束の、自分の影を写して写真に参加するスタイル、私ははるか前から実行していた。
これは朝である。早起きして港の周りを写しまわった時の一枚だ。
長髪のシルエットに時代を感じる・笑
またまた影の自画像・・・はどうでも良い。離島のせいなのか、瓦があちこちに用意されていた。嵐で屋根が傷むことが多いのだろうか、残念ながら聞き漏らした。
歩き回っていたら空が凄い調子になった。
穏かな光のこの島としては、強烈なコントラストだった。
港に注ぎ込む川の両側は、小型の船溜になっていた。強烈な朝の斜光線でシュールな絵になってしまった。
もちろん手焼きなら番手を下げ、ハイライトを多少焼き落とすのだが、ウエブでは無理なのでご理解願いたい。あまり元を弄りたくないので・・・
今なら4×5にアクロスで撮るだろう、そしてそれはこれよりきれいだが、これより強くはならないと思う。人はもちろん、カメラも被写体との出会いがあると思うのだ。
昨日の写真の逆から見たところ。静かな入り江だとわかるだろう。
船はまったく動いていなくて、静けさだけがあった。
それにしても、良く歩き回ったものだ。この頃はカメラを持ったら被写体に向かって突撃、という日々だったのだとわかる。
この後、私の写真はある意味で時代に毒されてつまらないものに成り下がってゆく。いわゆる「フォトジュニック」なものを追う様になる。それも時代の雰囲気とそれに応じた自分の変化だとは思うが、時代で写した写真はどんどん陳腐化して、今となっては封印したくなる。それに比べて、素直な驚きで写したものは、何年経っても色あせない。
このシリーズのために過去の写真を掘り起こしていて、一番感じるのは素直な目こそ大事と言う、ある意味で原点を発見することであった。
隠岐の島シリーズはまもなく終了する。うるさがた諸氏には最後までお付き合い願いたい。
以前からご覧頂いている皆さんは、このシリーズの時系列が、ほぼ逆転しているとお気づきだろう。
そう、今日のカットはこの島へ来た直後のものだ。狭くて高低差のある土地に無理に作った飛行場が今日の写真である。これが飛行場かと不思議な感じがする場所だった。
隠岐へ向かうYS11、下は雨雲、寒冷前線が通過した直後だ。この高さまで激しく揺れ、機内サービスも延期されたほどだったが、私はそれさえわくわくするのだった。
この前日に旅は始まり、この日は出雲から隠岐に向かっていたのだ。
YS11の機内にて。窓辺の景色だが今の航空機から見ると、実にシンプルというか、時代を感じる。デコレーションは何もない感じだ。それがなんとも言えず懐かしい。
このシリーズは明日掲載分で終了する。逆に周ってまもなく伊丹に戻るからだ。
搭乗の少し前である。話し振りから隠岐に飛ぶ機の機長と、スチュワーデスのようだ。
目で挨拶して2枚ほど写した。打ち合わせが終わった機長との会話。
「寒冷前線が通過したばかりですが、どうなんでしょう」
「隠岐ですか、けっこう揺れると思いますよ。まあ低いところを飛ぶからいつものことです」
明るくあっさりした話し方で、気さくな人だった。しばらく話していると出発時間が迫り、私たちは同じ機の中に乗り込んだ・・・・・
私の隠岐の島への旅はこうして始まった。
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30年経ってもこの旅の記憶は鮮明だ。その記憶を写真が裏打ちしているのは言うまでも無い。写真は記録、それも、上質な記憶を補強する記録だと思う。
今回改めて全てのカットを見直し、かつてはまったく興味が無く、焼かなかったカットが何枚か日の目を見た。かつては私の感性が評価しなかったものも、今見ればまた違ったものを伝えているのだ。写真の記録性と、変わるもの変わらないもの、それらを見つめなおす良い機会になったと思う。
ここまでをご覧いただき、あるいはさまざまな感想を寄せてくれた皆さんに感謝したい。皆さんの声援が無ければ、このシリーズは第一部で終わっていたと思う。
☆本日の写真について、ご感想はこちらの一言欄ではなく、正規の掲示板にスレッドを立てておくのでそちらにお願いしたい。まとめて保存したいのでよろしく。2003年9月17日 kan
非常に長大な写真集をごらんいただきありがとうございます。このように一気にまとめて見ると、連載当時とはまた違った目で見られました。
連載時に貴重なコメントを寄せていただいた皆様ありがとうございました。最初は10カットぐらいと思っていましたが、このように長大になったのは、皆さんのご声援に後押しされたと感じています。
−−−−−−−−Thanks a lot! Nov 2003 kan