浮島沼は静岡県富士市と沼津市の海岸地帯に広がる湿地帯である。 「浮島ヶ原開拓史」によれば、『沼津市・・・駿東郡原町、浮島村、富士郡元吉原村、須津村、吉永村、原田村、今泉村、島田村、伝法村、田子浦村・・・の一市二郡にまたがる十ヶ町村の地籍に属する東西三里、南北平均十八町、総面積にして二千三百十一町歩にわたっている』とある。ともかく広大な地域だ。 この地域は富士山、愛鷹山の山麓であり、これらの山から運ばれた土砂によって形成された沖積平野の湿地帯で、標高が低いので排水が悪く、長い間不毛の地とされていた。 しかし、私の祖父(初期の干拓期成同盟会長)たちが第二次世界大戦中に完成させた昭和放水路によって、次第に乾燥化し、広大な農地となった。 現在は工業化・宅地化に伴い、次々に工業用地、あるいは住宅地として開発され、昔を知るものは少なくなるばかりだ。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−− 私は幼い頃からこの地域に親しんできたが、かつての景色がどんどん消えてゆくのに驚いている。ザリガニを釣ったあの田圃はどこだろう、ハヤが泳いでいたあの小川は・・・もうすでに無い。 変り行くこの地をせめて写真で残そうとこのシリーズに着手した。したがって、シリーズ完成と言うのは無い。つねに現在進行形ということで、息の長いテーマになりそうだ。 主な参考文献 「浮島沼開拓史」「吉原市史」「富士市史」
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@昭和放水路と駿河湾
1942年6月26日、折からの豪雨で浮島地区の田は冠水した。激しい雨の中を、放水路に押し寄せた農民たちの必死の嘆願に、技師長は「まだ未完成だが主要部分は完成している。水門をあけて壊れるようなら元々工事は失敗だ。明日の朝開ける」と宣言した。翌朝、未完成のまま水門が開けられた。濁流は一気に駿河湾に押し出し、翌日には浮島一帯の水が引いた。
現場での生々しいやり取りを、祖父は私たち孫に何度も話した。水門を壊しても開けようとする農民と、何とかしようがんばった技師たちの奮闘は、幼心にも印象深かった。
今も静かに水を湛え、旧国道の脇にひっそりとしている。
A山
愛鷹山(あしたかやま)は、浮島一帯の北側にある。ここから滝川・赤渕川・須津川・春山川などが流れ出し、浮島一帯に土砂を運んでいる。これに富士川・潤川による富士山の土砂が加わって、沖積平野を作っている。
B川
滝川・赤渕川・須津川は合流して沼川となる。標高が非常に低く、かつて満潮時には海水が逆流することさえあったそうだ。今も流れは静かだ。下流部に製紙会社があり、30年程前にはその排水によって河口付近一帯はヘドロに汚染された。
C工場
工場はこの地域のもっとも普通の建築物かもしれない。経済と自然を考えるのに忘れるわけには行かない。
D農地
干拓の最大の目的は、食糧増産だった。開発でずいぶん減ったが、今も広大な農地が広がっている。
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