私が卒業した小学校。かつてここから東は全て水田であった。学校にも水田があり、体験学習として米を作っていた。兄たちは稲刈りの後プールに泥のついたまま飛び込んで、服も体も洗った。後で父兄から抗議が来て、このたくましい習慣はなくなってしまった。
学校の周りの水路。幼い頃はずいぶん広いと思っていたのだが、今見ればただの側溝だ。
姉はこの水の中に光るものを発見し、兄に命じて(ゴッド姉ちゃんだった)拾わせようとした。裸足で入った兄はこの時ガラスでかかとを深く切ってしまった。驚いた姉は逃げてしまい、兄は隣のMちゃんの手ぬぐいで縛ってもらい、彼に肩を借りて家まで歩いて帰った。母は何も叱らずただ兄の傷の手当てをした。今なら確実に救急車を頼むほどの傷で、深い傷跡は今も兄のかかとに残っている。
ここにも大量のきれいな水が流れていたのだが、製紙工場が地下水をくみ上げているので、湧き出す水は全て消えてしまった。学校の池に湧き出す水はおいしかったのだが。
周りを工場に囲まれてしまった中に残る水田。たくさんいたはずの白鷺はたった一羽しか見えなかった。
私たちはこの辺でよくザリガニを取っていたのだ。
滝川の下流部。全て人工の土手に変わっている。フナやハヤはここにいっぱいいたのだ。
今は工場群の中の、巨大排水路というところか。
土手の木のトンネルをちょっとノスタルジックに撮って見た。
”浮島”という名の由来 島が浮くという文字のとおりだそうだ。この地域の田は湿地に群生する葦が大量に積み重なり、それが支えとなって田土を得ている。大雨が降るとこれが浮き上がり、流されてしまうことからこの名前があるようだ。流された後は大きく深い池になってしまうので、第二次世界大戦ごろまでは、大雨が近いと田の四隅に杭を打ち、田の流出を防いでいたというのだから、すごいものだ。 この話はいろいろな文献に記載されているし、その作業をした人に話を聴いたことがあるので本当だろう。実際、昭和も大分過ぎた頃まで「どんぶり」などと呼ばれる池があったのだが、この池の様子からも想像は付く。泳ぎの達者なものでも足をとられるほどのドロドロの底で、小学生の頃、同級生がおぼれているのだ。 この地域の、胸まで埋まって田植えをする姿は、第二次大戦のしばらくあとまで続いたと、祖母に聞いているし、そういう写真も見ている。田植えをする足元には、支えのために竹などが沈められていて、これの上で田植えをしたそうだ。浮島沼を紹介した過去の写真では、田植えの苗は、船に乗った人から渡されると説明にあるほどなのだ。 |