つれづれ写真帖 P32


望月一義君に捧ぐ




「駿河意匠企画室」(現・駿河意匠、青山)を主催していた望月一義君(1947-2002)は私の高校時代の同窓生である。美術部の仲間であり、生涯ものづくり・表現活動の道を貫いた人だ。

先日、共通の友人で中学校長のKから、「一義君の遺作展が開かれている、すぐに行け」と連絡があった。




所は富士市の芸術村である。篤志家の旧家を市が譲り受け、そのまま芸術イベントの場として提供している。入り口には記憶のある絵がポスターになって飾られていた。




まさに旧家そのままの玄関。妹さんや縁者の人、同級生、多くの人が訪れていたが、静寂な空気が漂っていた。




富士山の見える町に生まれ育ったことを象徴する大作。




家具設計の代表作「たかひく」、足の置き方でテーブルとしても卓袱台としても使える。これの原型が出来た頃、見せてもらった記憶がある。家具コンテストで表彰され、現代家具のテーブル作品として選ばれている。




私の思い出の中の代表作、カレンダーと小物入れが合体した棚である。遊び心と実用性、デザインの斬新さに驚いたのは1970年代中ごろのことだ。今見ても楽しげなデザインは色褪せていない。




鯉幟に綿を入れたもの。仲間が一度に座れる工夫




傘のオブジェ




パイプで作った一筆書き的イス




いろいろなオブジェが飾られた飾り窓




木のステーショナリー。彼は素材としての木を大事にしていた。柔らかで冷たさの無い感触が好きだとも言っていた。




来客の芳名帳。懐かしい名前が並ぶ。




アイデアと絵が一杯描かれたデザイン帳




作品が掲載された雑誌の数々、生前の活躍ぶりがわかる













 私と一義君は同じ高校、同学年、同じ美術部に所属していたが、学生時代の付き合いは希薄だ。もっぱら絵を描き、デザインを追及していた彼に比べ、私はまさに青春するためにのみ存在したような高校生活で、高校時代にはあまり話すこともなかった。

 高校を卒業した後、彼は造形大学に進学、ひたすら自分の道を進んで在学中からいろいろな活動をしていたのは風の頼りに聞いていた。地元に戻って駿河意匠企画室を立ち上げる前後(1975-1980)に行き来が復活した。いろいろな作品を見せてもらい、その旺盛な創作エネルギーに圧倒されたものだ。

 結婚、東京進出、私の転業と引越しでいつの間にか没交渉になり、活躍は承知していたが、次に聞いたのは訃報であった・・・

 今回の遺作展で感じたこと、それはたゆまぬ努力と進化に対する尊敬と、惜しまれつつ亡くなったことの悔しさである。何の進歩もなく馬齢を重ねる吾身と重ねれば、才能あるもの、惜しまれるものは夭逝するのだと感じる。

 彼の生み出した「もの」はそれでも残り、多くの人に愛され、使われ続ける。駿河人望月一義が、精一杯生き、必死で作品を生み出した証として。

********************心よりご冥福を祈る。

Kan 2007 

  



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