精機光学 CANON



太平洋戦争の頃、キヤノンはまだ一商品名だった頃のレンジファインダーカメラ、通称は「精機キヤノン」をテストした。Sコレクションの秘蔵品である。

会社として発足してまだ日が浅い頃のキヤノンは、下記のような会社だった。



 法人化により経営が軌道に乗りはじめた精機光学工業は、「ハンザキヤノン = 標 準型」に続いて、1939年 (昭和 14年)2月に「最新型」、「普及型」、同年末には 「新標準型」を発売。新製品を次々と発表する精機光学工業だったが、カメラ製造 の仕上げは部品ごとにやすりで削ったり、一台一台隙間を埋めて調整したりと、文 字通りの手作業による生産体制だった。

「最新型」以後、その商標名からは完全 にハンザの名前が消え「キヤノン」となる。だが、近江屋との関係は変わることな く、販売にかかわる強力な支援が続いた。一般サラリーマンの月給が 40〜 50 円と いう当時、近江屋の営業マンは固定給約 20 円と決して高くはない。しかし、「標 準型」を1台販売するごとに 5 円の歩合がついたといわれている。

「普及型」とい えども、サラリーマンが購入するにはまだまだ値が高すぎる時代。カメラの購買層 は自ずと限定されており、近江屋の営業マンは、小売店ではなく購買力のある個人 の顧客に的を絞った販売戦略をとっていた。この戦略は見事に当り、営業マンの収 入と士気を高めることになった。

 順調な販売の伸びを見せるキヤノンの高級 35mm カメラ。その販売を受け持った近江屋には、すでにライカ、コンタックスが地盤を 築いていたヨーロッパへの進出という、夢のような計画もあったようだ。1938年 (昭和 13年) イギリスの写真業界誌『The British Journal of Photography』 3月 号には、近江屋による「HANSA CANON」の広告が掲載されている

−−『キヤノンカメラ史』から抜粋して引用−−


これで見る限り、まだヨチヨチ歩きだが既に営業重視の社風はしっかり育っていたようだ。今の隆盛の元は創業時からの社風によるものだと感じる。



整備済みでシヤッターからファインダーまで問題ない。




日本光学・ニッコールである。この時代にはまだレンズを作っていないから、外注は当然だが今の二社の関係を考えると実に不思議な組み合わせだ。



ほぼバルナックスタイル。ただし、ピント合せはコンタックス系のシステム(ヘリコイドはボディー側にある)で、マウントはSニッコール系に似ているが詳細は不明。この無限遠ストッパーは最悪で、無限遠にすると勝手にロックしてしまう。撮影リズムがずれてしまうし、レンズ交換は至近距離側に廻さないとロック解除しにくいから意味が無いデバイスだ。





ファインダーは収納式だ。ピント合わせとは別で、必要時のみポップアップさせる。



フイルム装填はバルナックの模倣、したがって入れにくさも同様だ。

《試写》

モノクロはSHD100、ネガカラーはサムスルさんに頂いたホリカラー100を使ってみた。







暖色のきちんとした描写で安定している。







☆使い心地はバルナックライカと似ているが、操作性はちょっと下かも知れない。
レンズは後のキヤノンLマウントレンズ群と違って、線の太い如何にもニッコールと言う感じがした。この時代に既に今でも十分通用する描写力と素直な発色で、戦前の日本の工学技術は決して低いものではないとわかった。

Sさん、珍しいカメラを使わせていただきました。なかなか得難いものて楽しめました。ありがとうございます。


戻る