ミノルタフレックスT 日本最初の二眼レフ

日本の二眼レフ(120フイルム仕様)の歴史はこのカメラから始まった。発表は1937年だから昭和12年、日本は日中戦争の只中、第二次世界大戦は4年後である。
この時期に日本で作られたものは、今までの私の感覚から言うと、カメラシステムとしては幼稚で素朴、機械工業製品というより手仕事の作品と思っていた。20世紀初頭には多くの立派なシステムを生み出したヨーロッパのものには遠く及ばないだろうと。



オークションで手に入れたがすさまじく汚い。これはすごいというレベル、外観ボロボロシャッター・絞りほとんど動かず、巻き上げ作動せず、ピントグラスは良く見えない。フォーカスのブは空回り、巻き上げカウンターは作動しない。何はともあれ慎重に分解していく。



前板を外したところ。革は何とニカワで補修されていた。その他塗装のタッチアップだらけ、ネジが欠けたり違うものが入っている、など長い間苦労して補修しながら使い込んだことがありありとわかる。ここまでして使ってもらったこのカメラは、幸せだったのだと思う。



驚いたことに、セミオートマットである。戦後のものと比べてもなんら遜色ないしっかりした構造だ。ここは油切れと調整不良と判明、カウンターも機能回復した。
黄色い印は始めてみるデバイス、二重撮影の警告装置だ。右側がシャッターレバーで(シャッターセットレバーで直接シャッターを切ることもできる)シャッターを押すとラッチが動いて二重撮り警告位置になる。巻き上げ用のボタンを押すとこれが解除される。単純だがなかなか便利な構造で、実写の時には迷うことが無かった。また、ファインダー内にはパララックス矯正用に撮影範囲をカバーする簡単な連動装置がある。実用的に優れている。



レンズはPromar NIPPon F3.5 75mm Nr107833 とドイツ的表記、シャッターはB 1.2.5.10.25.50.100.300 と旧系列、内部はコンパーラピッドによく似ている。300はエキストラのバネで出している。

革は人工の物で、材質が悪く縮んでいたが、隙間を埋めることで対処、あまりに塗装が傷んでいる部分は分解して半つや消し塗装(ただしあまりにきれいに塗装するのは他とつりあわないので、下地処理は簡単にして粗びさせた)を施した。随所に欠けていたネジなどを補い絞りの固着を除いて何とか動くようになった。



面白いのはトップにあるロゴが「TIYOKO」で、後のオートコードなどに見られる「CHIYOKO」とは異なることだ。ミノルタの前身である千代田光学の略称だが戦後は英語読みで「ティヨコ」になるのを嫌ったのだろうか。

このレストアを通じて、以前考えていたよりずっと戦前の日本の工業レベルは高かったということを実感した。細かい精度はわからないが、相当のレベルにあることは間違いない。戦争によってそれがずいぶん巻き戻らされたのだと思う。昭和20−30年代の二眼レフはやっと戦前レベルに戻ったに過ぎないと思う。戦争というのはすさまじい害悪であるとカルチャーショックに似たものを感じた。


ともあれ何とか写せるようになり、休日の公園に出かけた。下記のリンクから結果をご覧いただける。

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☆このレストアには後日談がある。絞り不動なのでこれを直そうと決意した。そこで裏側からシャッターユニットを分解、絞りは難なく復活したのだが、組み立て時にうっかりスローガバナーに指が引っかかり、スローガバナーに連動するスリッパ型部品のバネを飛ばしてしまった。これがどこに入ったかと探すうちにバラバラと部品が外れ、ついに組み立てをあきらめてしまった。何がどうなっているのかはわかるのだが、それを定位置につけようとする時に「見えない」のだ。最近老眼が進んで細かいものはほとんどわからない。ルーペで確認して次の作業へ動こうとすると今度は少しはなれたところにピントが合わなくなる。

無くしたバネは後で出てきた。いつかコンディションが良い時に再組み立てしようと思う。しかしそれがいつになるかわからない。もし挑戦されたい方があるのなら譲ってもかまわない。この魅力的なカメラが現役でいられるのなら、どなたの手元でも良いと思う。

部品が小さいメカのレストアはもうできなくなりつつある。今後は重いレストアは止め、メンテナンス程度で動くもので遊ぼうと思う。ちよっと悔しいが、元々写真が写したくて始めたことだから、大手術から引退するだけのことだ。作ることは私の本能なので、どんな形でも続けられればそれで良いのだ。


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