露出って何?そしてカメラとは


掲示板の常連、ミナレリさんの書き込みから日ごろ考えていることをまとめてみた。

以前どこかの掲示板で、kanさんが基本的にはマニュアル撮影です、と書かれていたようだった気がしますが、そうなのでしょうか?
(中略)
露出はネガでも半分ぐらいは外れる不正確さなのですが、全ては自分の責任というのが、気持ちいいです。
やっぱり、数写して覚えていくしかないのでしょうね。


私は露出については相当大雑把だ。特に、昼間順光で特に大きな影など無い場合、125分の1秒でF8か11ぐらいにし、 後はあまり考えずに写す。
リバーサルのように、露出にシビアな場合は、30年使っているセコニックのスタジオマスターで「そこに入ってくる光」を調べ、それに合わせる。
私が今の反射光を綿密に調べ、それらとフイルムのラティテュードでベストを探る方法(”高級”一眼レフの測光)を 否定する気は無い。しかし、この方法では見えないものまで写してしまう場合がある。別にそれが悪いと言う気は無い。 しかし、私にとってカメラは「見たものの記憶」を保存する道具だから、見えないものまで見せてくれなくとも良いのだ。

そう言いながら、一眼レフで超広角や望遠を使うときがたまにある。この時はどうかと言えば、「カメラは武器」と言う気分なのだ。自分に欠けた「広く見渡す・引きつけて細部を見る」という特殊能力をカメラに求めるわけだ。いわば、人間の能力を超えたところを切り取る武器なのだ。
この場合には最新兵器がありがたい。したがって、露出計は複雑で高機能なものほど良い。

理想の露出とはフイルムに依存する。ラティテュードが高ければ、露出なんて考える必要は無くなる。オーバーもアンダーもフイルムが吸収すれば良いのだ。カメラマンは被写界深度のコントロール=ボケのコントロールのみで絞りを選べは良いことになる。しかしそんなフイルムはまだ無い。銀塩フイルムを使うカメラが既にデジカメに負けているのはこの点もあるだろう。
理想フイルムが存在しないから露出についていろいろ遊べるわけで、デジカメの手ブレも露出も自動補正なんてのはまったくの記録用紙以外には使いたくない。それは単なる機械であり、人間性と言う点で希薄すぎる。

単に移動するだけならオートマチックの車に乗れば事足りるのに、人間がわざわざ大変なトレーニングを積んで、42.195kmを走るのは、ただ生きるだけの生活には必要ないが、どこか人間らしさを「苦難の克服」で試しているからこそだと思う。マニュアルカメラとフルオート機やデジカメとの違いはこの「人間性」かも知れない。


--------「失敗の無いカメラなんてつまらない」-------- 母の言葉は私のカメラ感の基だ。






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