良い写真とは何か

JFCの仲間から「写真の見方」というテーマで質問された。あるカメラの作例に対する私のコメントについて、 同感だがうまく説明できないので、その辺を説明せよとのお話だ。

レンズだけを写した結果から評価するのは案外容易いと思う。基本的な性能についての評価を語ればよいのだから、「収差が少ない・コントラストが高い・諧調が豊富で暗部のディテールが良く出ている・前ボケ、後ボケともに自然で良い・・・」これにカラーなら「色調(カラーバランス)・明度・彩度が優れ、自然な発色である・・・」なんて言うといかにもわかった風で、ベテランらしく見える。

果たしてそれが良い写真を評しているのかはなはだ疑わしい。そんな見方で写真を評価するのが何になるのだろうか。純粋に道具として見ようと言うなら、カメラ雑誌の診断室のごとくチャートなど写して「周辺部での解像度はF2.0において1800/oと高解像度・・・」とやればよろしい。これなら"科学的"に評価できる。その評価が実際に使う人の評価とどんなにかけ離れていようと、一つの事実だからだ。
もちろん、それで良いレンズと評されても実際に使うと違う場合がある事は、長い間写真を写してきた方には 良くあることだと思う。

オーディオにいくら工夫を凝らしても「原音」など絶対に再現できないのと同様、写真も「真実を写す」ことはできても、「真実を再現する」などありえない。
どこかで余分なものを付け加えたり、存在したものを引いてしまうのはごく当たり前のことだ。実際の風景のところでその場所を撮影したプリントを持参し、比較すればすぐわかることだが、「非常に良い」と判断された写真が実は「嘘だらけ」であると納得するだろう。

一般的に評価が高いカメラ・レンズには「嘘レンズ」が多いことが知られている。本物以上にくっきりしたり、強い色になっているのが評価が高い。これはフイルムには現実の景色を全て再現する力が無いことから来ている。 写真のコントラストは、切り捨てられたり対数圧縮された物だ。印画紙やモニター自体に自然の諧調は再現できないからだ。

こうなると、レンズの評価をすることが如何に難しいかわかるだろう。私たちにはそんなものは不要だと思う。 科学的評価より、自分の感性が受け入れるか否かが評価で良いのではないか。
私のカメラ・レンズの評価は従って実に単純だ。「好みの絵が撮れるかどうか」である。ここで言う好みとはまさに自分だけの世界で、それにどの程度の一般性があるかは与り知らずである。

乱暴な結論だが、ごういうドグマがなお許されるほどカメラは不完全で、人間の好みの種類もいろいろだからだと思う。それでいいのだ。


☆Dear Mr.T,

「カメラの読み方」の参考書なんて言葉遊び、専門用語で相手を圧倒するためのノウハウ本ですね。
そんなものより、写真をいっぱい見ること、写すこと、楽しむことだと思います。それで好きなものには「好き」嫌いなものには「いかがなものと存じます」と遠ざければ良いんじゃないでしょうか。
いろいろ良い写真を見ているうちに言葉は深くなってゆくと思います。参考書なら純粋にメカニズムやフイルムの科学に関するものの方が役に立つと思います。

蛇足ですが、クラカメの権威と称する「田*ちよー**」と「クラカメ風景写真の**」の物は、くだらない価値観の塊ですね。これだけは避けたほうが良いでしょう。もう少しましな写真を撮ってから物を申せです。
個人的に好きなのは、いろいろありますが全て写真家で評論家はいません。人の写真を評論するより自分で写す人のほうが好きです。増山タヅ子さんの写真の凄みは"カメラじゃない"という良い見本ですね。






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